ぷれーんぶれっど流『正論』

18歳、実質ニート。4月から専門学生。真面目なコトばかりブログにまとめていく。Twitterでの誹謗中傷や、同性愛問題、政治問題についての記事が多数。

私が黙祷をしない理由。“黙祷なう”の言葉狩りに意味はあったのか。

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東日本大震災から今日で8年が経過しました。

当時私は10歳。3.11によって自然災害の脅威を初めて実感することになりました。

被災地の復興は進んではいますが、人口の減少は食い止められず。原発事故が残した傷も治ることを知りません。

 

 

 

 

午後2時46分、黙祷。

日本中が静まる時間です。

 

私は黙祷をしませんでした。

それは何故か。

無論、被災者に対する敵意などがあるわけではありません。

ちゃんとした、理由があるのです。

 

 

黙祷をする理由

まずは黙祷をする理由についてまとめてみます。

私たちは、過去の大きな災害や戦争を乗り越えて、生きることが出来ています。その過去の大きな災害や戦争の中では、命を落とされた方もいらっしゃいます。そういった方々に対しての気持ちを表す行為として、黙祷は存在しています。

また、黙祷は過去の大きな災害や戦争を忘れないためにも大切なものです。人は毎日様々なことを考え、思いながら生きています。そんな生活が出来ているのは、過去に起きた悲しい出来事を乗り越えてきた人が居るから。悲しい出来事を黙祷によって思い出し、その悲劇を繰り返さないためにも、後世に伝えていくためにも、黙祷は大切なのです。

平和や復興を願うための大切な時間として、黙祷があるのです。

 

 

 

黙祷をしない理由

上に記したような理由が存在するにも関わらず、私は黙祷を拒んでいます。

それだけ聞けば、なんて酷い奴なんだと言われるかもしれません。

しかし、これにはきちんとした理由があります。

 

瞬間的な優しさ

黙祷は瞬間的なものです。悲しみを忘れないために行われていますが、その一瞬のみの優しさは、失われた命を取り戻すことが出来ず、ただ、この場所で想うことしかできません。

そして、それが終わればいつも通りの日常に戻ってしまいます。黙祷したことすら忘れてしまうかもしれない。被災者や被害者は毎日のように苦しいのに。黙とうをして、その一瞬だけを捧げる行為が、何かモヤモヤして、黙祷が出来ずにいます。

瞬間的な優しさを見せ、自分は優しい人間なのだと酔いしれてしまっている人も実際は多くいるのではないでしょうか。黙祷が形式化し、何も思ってもいないのに黙祷をする。これが正しいか正しくないかは別として、これでは本来の目的が薄まってしまっています。

そんなたった1分の過ぎ去る時間だけ、被災者を想う行為に、価値を感じ取ることが出来なかったのです。

 

黙祷によって失われるもの

そんなもの無いと思っている人が殆どだと思いますが、よく聞いてください。

黙祷は、1つの被害について想いを表現するために行われます。

しかし、私たちが生きているのはその1つだけの被害のみを乗り越えたからではありません。もっと、他にも、沢山存在する。東日本大震災だけではなく、沢山の地震を乗り越えてきて今がある。これを忘れてしまっているのが、今の“黙祷”だと思います。

東日本大震災の黙祷をしたとき、阪神淡路大震災や中越地震などの被害者を考えることはあるでしょうか。あまり、無いのではないでしょうか。東日本大震災の黙祷をして、阪神淡路大震災の黙祷をしていない人。これでは、東日本大震災の1件については忘れなくても、阪神淡路大震災などの他の震災については忘れ去られてしまう。

黙祷によって失われるものとはつまりこういう事です。

黙祷をした結果、その震災だけが注目されてしまい、他のところに目が行かなくなってしまう。これでは黙祷による“忘れない効果”が逆効果になるのではないでしょうか。黙祷で1つの震災を思い出し、他の震災について忘れてしまっては、全く意味がない。

 

 

 

ネット上の過剰反応について

本題とは少しだけズレてしまいますが、ここでお話させていただきたいと思います。

 

全文表示 | 3・11ツイッターで「黙祷」捧げる行為はタブー? ロンブー淳「二度と呟きません」と謝罪 : J-CASTニュース

黙祷を呼び掛けるツイートへ批判が相次いだことが過去にありました。午後2時46分に「黙祷」とツイートする行為は適切なのか、過去に議論されたこともあります。また、「黙祷なう」といったツイートに対し『非常識ではないか』との声も上がっています。

黙祷は自主性が大切ですし、被災者が居るにも関わらず軽い気持ちでの黙とうは非常識だとは思います。

ただし、これらの気持ちが行き過ぎた結果、“過剰反応”が起きてしまう場合もあるのです。

 

「黙祷なう」の言葉狩り

「黙祷なう」なんて言っている人は許せない。もっと真面目に黙祷してほしい。

勿論です。私も同じことを思います。否定できません。

しかし、『「黙祷なう」への批判』、それだけが独り歩きしてしまっては、せっかくの黙祷に価値が無くなってしまいませんか?

 

黙祷の本来の存在理由について、もう一度書かせていただきます。

私たちは、過去の大きな災害や戦争を乗り越えて、生きることが出来ています。その過去の大きな災害や戦争の中では、命を落とされた方もいらっしゃいます。そういった方々に対しての気持ちを表す行為として、黙祷は存在しています。

また、黙祷は過去の大きな災害や戦争を忘れないためにも大切なものです。人は毎日様々なことを考え、思いながら生きています。そんな生活が出来ているのは、過去に起きた悲しい出来事を乗り越えてきた人が居るから。悲しい出来事を黙祷によって思い出し、その悲劇を繰り返さないためにも、後世に伝えていくためにも、黙祷は大切なのです。

つまり、過去の大きな災害や戦争を、失った命を、忘れないために行われているのが黙祷です。

黙祷なう、と呟くのははっきり言って個人の自由です。黙祷をするのも個人の自由。黙祷しなかったとしても、それを赤の他人がとやかく言う事は出来ません。

「黙祷なう」この言葉をわざわざ否定し続けることが、何の役に立つでしょうか。否定することで、被害について国民が更に深く知ることが出来るのでしょうか。後世を生きる人たちに、被害を伝えることが出来るでしょうか。答えはNOです。

不快に思うのは正常な思考だとは思います。しかし、それをわざわざ震災のあった日に、ネット上で批判する必要があるのでしょうか。ネットを綺麗にしたい、という考えの表れかもしれませんが、何か、ズレているように思えてなりません。

 

強制力を求めるのは誰のためなのか

黙祷をしなさい、と言われたことはありませんか?黙祷は自主性が大切だったはず。黙祷を呼び掛けるのならまだしも、そこに強制的な力を持たせたのは、一体誰のためなのでしょうか。

黙祷を強制している人は、黙祷を“自己満足化”しているとしか思えません。黙祷は他人のための行為です。これを他人に押し付けてしまっては、黙祷の本来の意味がつぶれてしまいます。

先ほども書きましたが、黙祷をしないのも個人の自由です。これを否定してしまってはいけません。

 

これらのネット上の過剰な反応を見ていると、ますます、黙祷の価値が見えてこなくなってきたのです。

 

 

 

最後に

黙祷をすることを否定はしません。

黙祷が大切な行為であることも初めに書いた通りです。

ただ、今回私が書いた「黙祷をしない理由」について忘れないでいただきたいのです。

黙祷が形式化され、黙祷をする理由すらも忘れ去られてしまうのは悲しいことですから。